基本情報:

名前: 西村清志郎 にしむらせいしろう

年齢: 1974年2月生まれ

出身: 高知県

学歴: メルボルンカレッジオブテクノロジー 経営学部 / 高知情報ビジネス専門学校 ホテル観光学科 / パンナサストラ大学ツーリズム学科

職業・業種: 観光業、フォトライター

カ ンボジア: カンボジア観光省プロモーション&マーケティング部アドバイザー勤務。元JICAシニアボランティア派遣。主な仕事はカンボジアへの日本人観光客、視察、学生ツアーなど誘致、広報活動などとなっております。

2017年7月まで→ クロマーツアーズ(旅行業)、セグウェイツアー(旅行業)クロマーヤマトゲストハウス(宿泊業)、ブティックドミトリー高知家(宿泊業)、ド ラえもん、クレヨンしんちゃん、花より男子など各種クメール語版マンガ出版(出版業)、くろまる(出版業)、ハローキティグッズ(製造販売)、地球の歩き方ベトナム、カンボジア、ラオス営業担当、カンボジアで出会いたい100人出版・発行

失敗事業:多数、ハローベ ビー&キッズ(託児所)、炉ばた(飲食業)、バーなど

高知県: 

2017年7月まで→ はりまや橋ゲストハウス、はるのゲストハウス(宿泊業)

資格: 総合旅行業取扱管理者資格取得

座右の銘: 捲土重来、鶏口となるも牛後となるなかれ

趣味: 旅行、ビジネス、ロッククライミング

カンボジア歴: 2004年より

ウェブサイト: https://seishiron.com/

地球の歩き方特派員 http://tokuhain.arukikata.co.jp/siem_reap  

 

【簡単な紹介】

カンボジア観光省プロモーション&マーケティング部(日本人マーケット担当アドバイザー)

2017年7月まで→カンボジアでフリペ「くろまる」編集&発行。カンボジア関連書籍出版のほか、旅行会社、ゲストハウス、レストランなどを運営。高知県では「はりまや橋ゲストハウス」を運営中。高知県出身の編集・ライター・フォトグラファーで、執筆、撮影業務なども行っている。ブログ「Office Seishiron」で海外から見た日本の視点でビジネス情報を配信。


  ~ ストーリー ~

カンボジアで出会いたい100人より抜粋

  西村清志郎 にしむらせいしろう R8_Nishimura カンボジアの子供たちに日本のマンガ文化を。その言葉をキーワードとしてシェムリアップで旅行業や出版業を営みながら生活をしている第二次ベビーブーム生まれの男性。そして平均年収ワースト1である地元・高知県とカンボジアを繋げるために新しい道を模索している。

 

日本時代

小学校高学年から高校を卒業するまで新聞配達をし、長期の休みになると様々なバイトをやっていた。毎月1~3万円弱のお給料、多い時には10万円以上あった。子供には少し多いぐらいのお小遣いであった。その金で、本やマンガ、そしてゲームや電子機器など、新しいモノが出ると次々と手に入れ、いつも貯金はゼロという生活であった。

高校を卒業し、地元の観光専門学校に入学した。単純に大学入試に失敗し、まだ社会には出たくはなかったからであった。観光学科を選んだ理由も、なんとなく海外に繋がっているという雰囲気で選んだだけであった。

バブル景気も終盤であった高校卒業時、人手不足に悩まされていた企業は都市部で行われる企業説明会参加者に対して、地方からの参加者に対し、食費、交通費、宿泊費、そして手土産付きと言う時代であった。それから2年が経過し、いつの間にか世の中は平成不況へと突入していた。学校で旅行業に関する資格は取得していたが、旅行会社からの求人は驚くほど少なかった。結局、学んだこととは関係がない、地元のアパレル会社に就職することになった。

不況を感じない職場であった。世の中はアメカジブームであり、新しいファッション誌が次々と発行されていた。ビンテージと呼ばれるリーバイスジーンズやナイキ、そしてGショックには驚くほどのプレミア価格がついていた。サラリーマンとして働きながら、個人バイヤーとして、田舎町のホームセンターや時計屋、そしてリサイクルショップを廻っては、価値のあるファッションアイテムやブランド品を大量に安く仕入れ、売買雑誌などに掲載し、販売していた。毎月100万円を超すカード支払いはあったが、収入はそれ以上にあった。

気がついた時には、入社から5年が経過し25歳となっていた。あっと言う間であった。若さとセンスが常に求められる業界である。流行の移り変わりは早く、将来を考えた先輩達が次々と辞め、いつの間にか中堅スタッフになっていた。上司から役付きの話がちらほら出始めた頃、自分がやりたい事は何だろうと考えだした。  

 

海外に、そしてカンボジアに

趣味はスノーボードであった。退社後すぐに北海道の雪山へと籠り、雪解けシーズンとともに、新雪を求めて南半球のニュージーランドへと移動した。雪山近くの安宿に滞在し、朝は図書館と語学学校、昼になるとヒッチハイクをしてスキー場へと通っていた。

ビザ切れのタイミングで、オーストラリアへと移動した。たまたま知り合ったばかりの日本人と一緒にクライミングに行くことになった。気軽な日本人バックパッカー三人旅、レンタカーを借り、出発して1時間もたたないうちに当て逃げされた。いつ終わるかも分からないレンタル会社とのやり取りのため、自分だけがその街に滞在しなければならなくなった。暇つぶしを兼ねて学校に通うことにし、授業が終わるとジムでクライミングを楽しむ日々が始まった。

気がつくと30歳になっていた。そろそろ社会人として日本復帰をしなければならないと考えだした頃、カンボジアの孤児院でボランティアをしている友人から連絡があった。「自分の代理で来ないか?」。魅惑的な言葉であった。東南アジアは嫌いではなかった。学生時代は夏休みの度に、タイを基点に周遊していた。

カンボジアは3回目であり、南国特有の蒸し暑さと、ぬるさに慣れるのもそう時間がかからなかった。到着した孤児院では基礎英語と日本語の授業を行っていた。朝8時から17時まで6コマの授業を行う。実のところ、子供が苦手であった。孤児院で働こうと思った理由の一つに子供嫌いの克服もあった。しかし、子供たちはそんなことにはお構いなく、来たばかりの素姓も分からない日本人に対し好意的に接してきた。1ヵ月も経つと子供嫌いだった自分はいなくなっていた。

もともと6ヵ月間のボランティアだと決めていた。働いていた当時の貯蓄を切り崩し、生活費や授業で使う教材費を賄っていた。3ヵ月経過した頃、予定していた以上にお金が無くなっていた。不思議に思っていると、孤児の一人が毎日財布から少しずつ抜き取っていたことが発覚した。持ってきていた現金も少なくなり、本格的に日本への帰国を考えるようになった。そんな時、コンビニで見かけた張り紙には「日本人ガイド募集」と書かれていた。    

 

現地採用と新規ビジネスの立ち上げ

当時、カンボジアに訪れる外国人旅行者では日本人が一番多く、旅行会社は日本人スタッフの現地採用に力を入れていた。1年程ガイドとして働き、その後、手配や企画業務を行うようになった。現地社長の意向もあり、会社内に新事業部を設立し、フリーペーパーの出版と、ウェブによる個人旅行者向けツアー販売を開始した。

現地採用の契約社員という事もあり、給与が安いかわりに、就業時間外の個人的な仕事に関しては自由にしていいという契約であった。また、新しい事業を行う場合は会社側に一言伝えるだけでよく、そのプロジェクトが面白ければ共同出資と言う形で事業を立ち上げることもあった。

タイやベトナムなど、他のアジア諸国では大ブームとなっていた日本のマンガは、カンボジアでの認知度は皆無であった。孤児院で働いている時にも、子供たちが古着のドラえもんTシャツを着ていたことがあったが、彼らはそのキャラクターの名前さえ知らなかった。いつかカンボジアにマンガ文化を広められればいいなとぼんやり考えていた。ものは試しと考え、日本の出版社に連絡すると好意的な回答が来た。そして幾度かミーティングを重ねることでカンボジアでクメール語訳したマンガを正規版として発行できる許可を受けることになった。

2013年10月、それまで務めていた会社を退社した。もともと10年を区切りとして、独立するように考え、社長にもそう伝えていた。話し合いの結果、それまで自分で立ち上げ、出資していた旅行会社、ゲストハウス、マンガ出版事業などをスピンオフすることになった。

現在は、それらを運営しながら、カンボジアに関する書籍の出版などを行っている。実際、カンボジアに来てから、いくつものビジネスを手掛けてきた。コーヒー豆の土産販売、不動産斡旋業、総合土産物店、お好み焼き屋、ペット用品のショップなど、小さいものを含めると数えきれないほどである。そしてその多くは失敗している。それでも、少しでも自分が興味を持ったことは手掛けるように考えている。やらずに後悔するよりやって後悔。ビジネスも人生もそれでいいと考えている。

今でこそ、やっと自分の好きなことが、自分のペースでできるようになった。今後は既存のビジネスを安定させ、近い将来、地元である高知県とカンボジアを繋げられる事業を行いたいと考えている。    

 

今後のカンボジアと自分の挑戦

カンボジアに来て10年経ちました。もともとカンボジアにこだわりがあった訳でもなんでもなく、それまでの生き方同様にたまたま流れ着いたような感じでここで仕事をやっています。

今までカンボジアで働きたい、事業を興したい、事業を興したという日本人数百人に出会い、話を聞いてきました。そこで気づいたのが、「カンボジアじゃなきゃいけない」「カンボジアが好きだから」と、カンボジアにこだわって事業や活動を行っている方ほど、カンボジアに裏切られ、失意のうちに帰国する人が多いという事です。何をやるにしても、カンボジアは選択肢のうちの一つだという意識でいた方が心にも余裕が出来て良いとは思います。

生活でも仕事でも、楽しい、楽しくないの判断は自分の気の持ちようです。自分が歳をとった時に後悔しない生き方をしたほうが良いと思っています。